4月1日、北海道新聞は「がれきに見る無責任の拡散」とのタイトルで、震災がれきの広域処理に反対する趣旨の編集委員意見を掲載した。
 「放射能を扱う原則は、『閉じ込める』であり、国のやり方は逆で・・・放射能とともに、無責任も拡散する・・」さらに「食糧基地・北海道の将来と住民の安全に誰が責任を負うのか」とも述べている。
 私は、この主張こそ無責任そのものだと、怒りに体が震えた。そもそも「がれき」は津波が原因であり放射性物質は含まれない。地震と津波の翌日以降に起きた原子炉の爆発によって放射性物質が一部の地域に降り注いだのであり、「震災がれき=放射性物質付着」との前提で議論することは間違いだと考える。仮に「(原発事故が無く)津波被害だけのがれきなら受け入れるのか?」との問いなら、おそらく多くの自治体は”YES”と答えるだろう。今回のがれき処理の基本はこのスタンスなのだ。そこから議論を始めよう。
 このことを前提にしつつ、離れた場所であってもホットスポットは存在することから、万全を期すためにがれきの搬出前と受け入れ時、そしてその後も放射性物質の検査をすることになっている。

 仮に全てのがれきが受け入れお断りというのなら、福島県のみならず宮城県、岩手県には「危険だから住むな」ということなのだろうか。さらにそこで生産された農作物などは、全て「危険」だと言いたいのだろうか。ごく微量なら、被災県のみならず関東、そして地球規模での拡散が行われている。“ゼロ”でなければ受け入れないのではなく、一定基準で線引きを行い自治体が余裕のある部分に関して協力するという形のどこがいけないのだろう。
 BESの問題を覚えているだろうか。当時はBSE発生確立が「ゼロ」でなければ認めないとの空気が広がり、「安全」よりも「安心」の為の全頭検査を実施し、現在に至っている。ところが、米国産牛肉は牛の個体管理を実施していないのにも関わらず、その危険性は「無視できる」として、日本並みの安全性を国際機関が認めているのだ。今どき牛丼チェーンの米国産牛肉が危ないとの風評は聞いたことがない。安心と安全の違いを認識し、議論するべきだと私は思う。
 北海道が示した基準は国が決めた安全基準よりも遙かに厳しく、それをクリアしたもののみ受け入れることに、私は全く疑問をもたない。

 さらに「いつの間にか引き受けなければというムードに道も議会も流されている。」・・・何を根拠に「流されている」と言うのだろう。失礼にもほどがある。北海道新聞こそ、これまで曖昧な態度に徹していたのに、いまさらそれはないだろうという気持ちでいる。

 次に「がれきは専用の焼却施設を被災地に建設し、厳格な管理下で集中処理するべきものだ。政府が努力を怠った付けが地方の実情や特性を無視した泥縄の広域処理となる。結果、責任は市や町や村へと拡散、転嫁される。」と言うが、
どのような理由があろうとも、被災地で処理しきれないという現実があるのだから全国の自治体にお願いしているのであり、それぞれの自治体の能力に応じた対応をお願いしているまでなのだ。また、がれきは全て焼却するのではなく、加工し再利用可能なものもある。その技術をもった地域もあって、被災県で再利用してもらおうとの考えもあるのだ。

 このように対案もなく、安易に「国の責任」として切り捨てる北海道新聞の主張こそ、「無責任」そのものだと私は思う。