4月18日・19日、私は宮城県および岩手県のがれきの状況や復興の進捗状況を調査した。初日は仙台空港から石巻市、松島、女川、南三陸と見て回った。現実を目の当たりにすると、写真や動画では伝わりきれない津波の破壊力に、ただ驚くしかない。報道で目にした見覚えのある光景と現状とを対比しながら、がれき処理が済み何も無くなった地域と、いまだに手つかずで当時の痕跡を残す地域が混在し、「復興」の進み具合の違いが見て取れた。
テレビで聞いた数々の悲しいストーリー、「ここであの人たちが、身内を探していたんだな…」などと思うと、悲しくていたたまれなかった。
女川、南三陸はでは、民家の基礎以外は何もない一帯が広がるが、次なる一歩「復興」の兆しはまだ見えない。地域の人に話を聞くと、高台移転など新しい町のデザインが決められていないとのこと、また市による土地買い上げ価格の具体提示がなされる段階となり、個々の利害か交錯し交渉がまとまるにはまだまだ時間が必要とのことだった。
19日朝、南三陸漁港の漁師が、新たに結成した生産グループでワカメの刈り取りと加工を行っていた。海から引き揚げられた茶色いワカメは、熱湯を潜らせると鮮やかな緑色がよみがえる。漁師のリーダーが「食べてみろ、うまいぞ」と言って差し出されためかぶは、まるでハンドベルを持ってそれにかぶりつくような豪快さ、普段食べるワカメよりも甘さと塩味がさらに多く、しっかりとした歯応えと粘りの食感だった。漁師の皆さんの顔は誰もがいきいきとしている。仕事ができる素晴らしさを感じているのだろうと思った。ワカメとともに養殖魚種の中心となるホタテは、北海道から1年貝を提供されたことで、今年から出荷できるようになった。これも漁師の連帯感の表れなのだろう。
南三陸町は漁業が中心の産業構造で、復興にはまず基幹産業を軌道に乗せることが急務だ。眼前に広がる志津川湾には、ワカメやホタテ養殖のイカダが並び、漁も徐々に震災前に戻りつつあるという漁師の言葉の奥には、明るい希望がのぞいていた。
続いて私たちが向かった陸前高田市には、今回のツアーの案内役をしていただいたN氏が所属する北海道のボランティアグループの拠点がある。彼らは仮説住宅で避難しているお年寄りの生き甲斐創出のために、がれきの中からプラスチックの廃材を拾い集め、被災者にキーホルダー作りをしてもらいその販売利益を還元するという、ばらまきではない支援を行っている。単なるお手伝いにとどまらず、ストーリーのある事業だと感じた。しかし、いつまでもボランティア精神が続くわけではない、今後は自立し持続可能な“事業”と呼べるものを探す必要があるようだ。容易なことではないが、何らかの形で応援したいと思った。
ボランティアグループの拠点には、噂を聞いた若者が後を絶たないとのことだ。そこには最近九州から来たという二名の若者もいた。仕事はどうしているの?と聞いたところ、1年ほど就職したが自分が目指すものとは違うとの理由で退職、その後「自分にできること」を探すためにやって来たという。「若者はなぜ3年で会社を辞めるのか」その著種を引き合いに、しばし昨今の就労感について若者と議論になった。
その後被災現場を視察した。陸前高田市は独自のがれき処理が比較的進んでいるようで、大型ダンプカーに山積みさらたがれきが、分別場に次々とやってくる。そこでは数十台の重機が忙しく分別を行っていた。
陸前高田市内の市街地は、いくつかの大型の建物を残してほぼ全域が何も無い広大な平原となっている。残された建物の中で市役所は津波襲来当時の状態をあえて維持しているようだ。庁舎1階ロビーではクルマが柱にめり込み、まるで爆破跡のように様々なものが散乱し、津波の威力を物語っていた。玄関前の祭壇にはお線香と献花の他に、いくつかのランドセルも添えられている。多くの小さな命も逝ってしまったのだと改めて認識させられる。
案内役のボランティアグループのG氏は「辛い場面ばかりでは、滅入ってしまうので、明るい部分をお見せします」そう言って、我々を高台にある被災者交流の場へと案内してくれた。住宅会社の協力で建てられたログハウスには、女性達が交代で喫茶店のスタッフをし、被災者の交流の場を提供している。仕事も失われ、目標も無くなった人々の心の支えやさまざまなストレスからの解放に役立っているようだ。ボランティアの女性たちのパワーと明るさに、こちらが勇気づけられてしまった。
続いて私たちは気仙沼へと向かった。リアス式海岸を縦断する国道45号線東浜街道は津波の被害を大きく受けた入り江付近と被害の無い山道を走る。気仙沼市は最も津波の被害を受けた地域の一つだ。町中には津波で打ち上げられた大型漁船が鎮座していた。近くによって見ると船底にクルマと思われる残骸があった、タイヤがなければとてもクルマとは識別できないほど原型は止めていない・・・津波威力を表す象徴的な「モニュメント」となり、多くの見物人が写真を撮っていたが、地元の人々にとっては「悲しい想いで」でもあるのだ。町の中心地に個人の力で立ち上げた「復幸マルシェ」という商業施設がある。そこで見た津波直後の写真には、一面のがれきに道路だけが一本の筋となっている。その光景は戦後の焼け野原を思い出させる。津波から逃げ出すことのできたひとりの話では、波にのまれずぶ濡れのひとは重くひとりではすくい上げられない。数人が力を合わせてようやく助けることができたようだ。ただし、他にも多くのおぼれてゆく人々を助けられなかった悔しさもにじみ出ていた。そのリアルな話は、とても平常心では聞いていられなかった。
気仙沼では北海道から知人がやって来て、復興イベントの準備を行っていた。現地の人々も、下を向いてばかりではなく「やれることをひとつずつ行っていこう」との意気込みを感じ、逆に勇気をいただいた。とてもスピード感とはほど遠いが、少しずつ復興の足音が聞こえだしていることも事実だと感じ、私たちは視察調査を終えた。
今回の宮城県、岩手県の津波被害調査では、津波の威力を目の当たりにして、改めて防災の重要さと、現実的な対策へのヒントをいただいた。今後は太平洋岸を中心としたより現実的な津波防災対策を緊急なものと、中長期的なものに分け考える必要があると思われる。また、がれき処理の実態を見て、本道でのいち早い協力の必要性を痛感した。現地では歯を食いしばって復興に向けた努力が行われているが、1年経っても変わらない悪臭漂うがれきの山を毎日見なければならず、時にはそのやる気も萎えてしまうとのことばが忘れられない。「残りの2割や3割なら現地でできるだろう」ではなく、被災地が望んでいるのなら、少しでもできる協力を行うのが人の道だと私は思う。がれき受け入れを反対する人々の多くが、がれきイコール放射性物質含有との疑いをもっている。それでは復興支援が一歩も前に進まない。厳重な検査を行うことを条件に受け入れを検討するべきだと私は考えている。今後も議会議論を行っていきたい。