統一地方選挙前半の道府県・政令市議会議員の選挙が3日告示され、無投票の選挙区の割合が過去最も高くなった。新聞各紙は無投票は有権者の政治選択の機会が奪われることになり、民主主義の危機だと報じている。香川県では2/3(65.9%)にあたる27議席(定数41)、さらに山形県(45・5%)、宮崎県(43・6%)と続く。
その事に対して異議を唱えるつもりはないが、朝日新聞はその責任は政党にあると断じている。北海道新聞は、「無投票は緊張感が生まれず、議会機能の弱体化につながり、被害を被るのは有権者だ」と述べている。多くの選挙区で候補者を擁立できなかったのは民主党ばかりではなく、自民党にも見られたという。清新な人材を発掘し、政治に送り込むと言う政党の代謝機能が低下しているという。また、議会は地域住民の声をすくい上げることが役割であり、その最大の機会が選挙であり、それが奪われるのは地域にとって大きな損失であると述べている。さらに毎日は「なってみたいと思わせるのも議員の仕事」だと言う。「言うは易し」だと思った。
同じ日の「天声人語」(朝日)には、あこがれのはずの航空機のパイロットがLCC便の急増で不足している事について、人材供給が急がれるけれども安全面を決しておろそかにしてはならないと警鐘を鳴らしている。
議員という立場があこがれに値しているのだろうか?
これほど無投票が増える状況を民主主義の危機だとする意見も正しいが、一方で議員定数削減や議員報酬の減額を求める主張が展開されてきたことも忘れてはならない。議員には一般人以上のモラルやコンプライアンスが求められるのは当然だが、過失的な失態をこれ見よがしに徹底して避難する風潮はないだろうか。
無投票という結果を批判するのなら、まずは有権者に訴え、次ぎに立候補者が生まれにくい状況を鑑みてその解決には何が必要かに言及するべきだと私は思う。
私が考える立候補者が生まれにくい要因として、
*仕事を辞めて立候補するリスクを冒す価値があるのか?
*あこがれる仕事となっているのか?
*金銭面の負担に耐えうる立場なのか?
*子どもを育て、高等教育を受けさせる保証があるか?
等が考えられる。民主主義のコストの視点での考察があっても良いと思っている。そして、呆れてしまったのが以下の地方紙の主張だ。
「投票率を上げたり、地方政治を活性化するためには、まずは無投票を避けて選挙戦を行うことだ。『誰に投票しても何も変わらない』という有権者の無気力感を少しずつでも削いで、政治に目を向けてもらう努力を政治家は傾けるべきだし、政策の違いを分かりやすく訴える工夫もすべきだ。
統一地方選挙で当選を目指す選挙戦を展開しようとするなら、投票率をいくらかでも上昇させるための選挙運動を展開してほしい。選挙戦になるというだけで、地域活性化のスタートラインに立っているという意識を持っていいと思う。どのようにして有権者を選挙に引きつけることができるか、立候補者の手腕と工夫に期待したい。」(長野日報)
ここでいう政治家が有権者の政治参加に努力していないといいたいのだろうか。少なくとも目的があるから立候補しているのだし、当選したいから有権者に自分への支持を訴えている。そのことが投票率の向上に向かっていないとでもいうのか。「立候補者の手腕と工夫に期待したい」と言うが、もっと良い方法があるのなら教えてほしいものだ。一票でも多く得票を増やしたいと候補者の誰もが必死になって考えているのが分からないのだろうか。このコラムを読んで、他人事の域を出ない、何の説得力を持たない主張だと思った。地域活性化に自ら汗を流したこともないのだろう。記者だって有権者の一人だし、読者に訴えてもいい。自分の周りの人に訴えてもいい。それがダメなら自ら立候補するとなぜ言えない。少なくとも立候補している者は目的は様々かもしれないが、無投票を黙って観ているのではなく、自ら行動を起こしているのだ。